赤井田拓弥がカリフォルニア州 Palm Desert にある College of the Desert に留学していたときに起きた、さまざまな出来事をエッセイ風に書いています。
カリフォルニアの青い空 ― 最終回 ―― 大学学内新聞の編集スタッフを終える。
私は、日本での大学時代には読売新聞奨学生として配達業務や集金などに忙殺され、大学でのサークル活動などはしたことがなかった。 アメリカの大学での学内新聞の編集・制作に、ただ一人の non-native speaker として参加し、Production Manager に抜擢され、充実した学園生活を送っていたが、日本の大学の休学期間が切れようとしていた。
カリフォルニアの青い空 ― 46.大学学内新聞の制作(印画紙現像)工程の続き。
私は高校時代に新聞部だったし、大学では新聞配達をして通学する「読売新聞育英奨学生」であった。そのとき、新聞本社にある育英奨学会で奨学生向けに新聞を出さないかという提案があり、私が高校時代に新聞部だったということから、『読売ジュニア』という月刊新聞の編集をやることになった。 そうした経験から、レイアウトなどには慣れていたので、私が率先してレイアウト・割り付けを行うようになっていったのである。
カリフォルニアの青い空 ― 45.学内新聞制作に参加する
College of the Desert では、The Chaparral という学内新聞を週刊で発行していた。その制作スタッフとして参加できることになった。 この制作スタッフとしては、大学のコースで Introduction to Journalism という授業を受けている、または担当教授の Dr. Roy Wilson の何らかの授業を取っている学生が参加できるのだった。 私も Introduction to Journalism を受けていたので、教授に「新聞づくりに参加してみないか」と言われ、喜んでメンバーに加えてもらった。
カリフォルニアの青い空 ― 44.「ジャーナリズム入門」の授業
前回の記事に、College of the Desert の授業では、English as a Second Language(ESL)のほかにカレッジ・コースも受けられるようになったことを書いた。そして、テストを受け、「Introduction to Journalism(ジャーナリズム入門)」という授業を受け始めた。
カリフォルニアの青い空 ― 43.カレッジ・コースでのジャーナリズムの授業を受け始める。
始めてから2か月ほど経った頃、one semester のうちに6ユニット(単位)までであれば、大学のコースも無料で受けられるということを知った。 カレッジ・コースにジャーナリズムの授業があり、受けたいと思った。それで、大学の学生課だったか教務課だったかに申し出たところ、ジャーナリズムの先生と話ができ、英語能力のテストを受けなさいという指示が出た。
カリフォルニアの青い空 ― 42.ディズニー映画社のスタジオ見学を、1人だけ車でさせてもらった。
すでに当時、彼のキャデラックにはクルージング・システムが付いていた。例えば、時速55マイルで走っていてボタンを押すと、アクセルから足を離しても、スピードをキープしておける。当時は、フリーウェイはスカスカ状態だったから、ブレーキをかけるようなことがない。なので、シートにあぐらをかいたまま何マイルも走ることができた。
カリフォルニアの青い空 ― 41.ハワード・ミンスキー氏に会ったこと
ハワード・ミンスキー氏とは、70年代初めに大ヒットした映画『ある愛の詩』の製作者(プロデューサー)だと教えてもらった。70年代に若い頃を過ごした人たちには馴染みの深い映画だろう。思い出深い映画だろう。私が大学に入った年に小倉でも上映されており、観に行った。
カリフォルニアの青い空 ― 40.今でも後悔しているゴルフのこと
彼が言うには「今朝、Mr. Ford と急遽ゴルフをする話になり、メンバーを探したけど、急なことで誰もいっしょにプレーする人が見つからなかった。それで、仕方なしに、二人だけでハーフを回って帰ってきたんだ。君が今朝電話をくれていれば、3人で回れたのに」と。 なんと、私は前大統領とゴルフができる恩恵をみすみす逃してしまったのだった。今でもときどき「惜しいことをした」と思い出す。
カリフォルニアの青い空 ー 39――25万坪の家の敷地内にゴルフ場
その「有名な邸宅」には、敷地の中に9ホールのゴルフコースがあり、庭師のための駐車場が200台分、そして、その庭師たちが車で来て給油するためのガソリンスタンドまでが設けてあるというのだった。真実のほどは定かではない。 25万坪だそうだ。
カリフォルニアの青い空 ― 38.フランク・シナトラ邸への花の配達
門の前に車を停め、大きな門に近づくと、門にしつらえられたスピーカーから Who is it? と音声が流れる。もう、その当時(1977年)から防犯カメラが取り付けてあったのだ。 どこにマイクがあるか分からなかったが、私は門に向かって 「花の配達に来た」 と叫んだ。