赤井田のつぶやき

カリフォルニアの青い空

カリフォルニアの青い空 ― 6.いったん屋久島に帰る

 4年間の新聞配達(育英奨学生)と、内容が濃いとはとても言えない大学生活(留年でまだ学生身分だが)を終え、1976年3月末、私は大学に2年間の休学願いを出した。
2022.10.06
カリフォルニアの青い空

カリフォルニアの青い空 ― 5.アメリカの大学探しと新聞配達終了

カリフォルニア州 Palm Desert というところにある College of the Desert という大学の ESL (English as a Second Language) プログラムの責任者から手紙が来た。「いつ来る予定か、今はどういう状況にあるのか」などなど、いろいろな質問が書いてあった。それで、すぐに返事を書き、その後、その責任者の人とは数度の手紙のやりとりが続く。
2022.10.06
カリフォルニアの青い空

カリフォルニアの青い空 ― 4.留年が決まる

当時は、就職浪人は新卒に比べて不利だと言われていた。就職の応募条件に「新卒に限る」という文言があることが多かったのである。留年して多少ほかの新卒者より年齢が上であっても、就職浪人よりは有利だった。就職浪人は、一種の離職者扱いだったのだろう。
2022.10.06
カリフォルニアの青い空

カリフォルニアの青い空 ― 3. 大学4年次の生活とアメリカの大学探し

就職を先延ばしにしてアメリカに1年または2年行こうと心に決め、3年のときはかなり単位を取得した。そして、4年のときは、週に何日も大学に行く必要はない状況になった。
2022.10.06
カリフォルニアの青い空

カリフォルニアの青い空 ― 2.人生のモラトリアム

 「金はない。英語力もない。どうやったら留学が可能か」を模索し始めた。そして、就職を先延ばしにし、同級生たちが働いているときに、アメリカで過ごすことを、自分では「人生のモラトリアム」と呼んで、ひそかに楽しんでいた。
2022.10.06
カリフォルニアの青い空

カリフォルニアの青い空 ― 1.大学1年のとき、カリフォルニアにあこがれる。

ぼんやりとした不安を抱えながら大学生活を続けているなか、ラジオからは『カリフォルニアの青い空』が流れていた。英語の歌の歌詞などほとんど聞き取れる状態ではなかったが、アメリカのカリフォルニア州というまだ見ぬ世界に思いを馳せながら、いつかは行ってみたいという気持ちを膨らませていったのだった。
2022.10.06
タイトルとURLをコピーしました