赤井田のつぶやき

赤井田拓弥の個人ブログに関する記事です。カテゴリーからはみ出した話を書いていきます。

奨学生の西の空

新聞配達をしながら家庭教師と添削

50年前の大学1年生のとき、ある中学3年生を、2年の3学期に通信簿が「1」だった英語を、2学期には「5」にした家庭教師の体験を書いてみよう。  1972年4月に読売新聞育英奨学生となって新聞配達を始め、大学生活とのリズムも分かり始めてきた頃、たぶん、最初の集金のときだったかもしれない。ある読者に、こう話しかけられた。 「読売さんは、米英ですか」
2023.06.15
屋久島のこと

西瓜で思い出すこと。

彼女は、むげに「要らない」と。いくら頼み込んでも「要らない」で終わってしまった。 帰りの道を1キロ歩くあいだ、悔しくて泣けて仕方がなかった。
2022.10.05
赤井田のつぶやき

木々の芽吹きを見ると思い出すこと

 そして、ボストンに着くころには、木々は青葉になっていたのである。うたた寝をしながら3時間のバス旅だったが、半月ほどの時間が流れたような気分を味わった。
赤井田のつぶやき

川端康成と著作権

50年前なので著作権が切れたのかと思ったが、1968年以降に亡くなった人の著作権は死後70年まで有効だそうだ。なので、川端康成の著作権はあと20年は残ることになる。
赤井田のつぶやき

形容詞や過去形に「です」は続かない。

1964年の東京オリンピックのマラソンで銅メダルを取った円谷幸吉の遺書のことを、ノーベル賞作家の川端康成が、「遺書全文の韻律をなしてゐる。美しくて、まことで、かなしいひびきだ」と語り、「千万言も尽くせぬ哀切である」と評したと言う
屋久島のこと

屋久島でのパイナップルの話。

しまったという経緯である。何かでたまたま大量のパイナップルの写真を見て思い出した。昭和44年が終わろうとしている頃、屋久島の人たちは、後にも先にも経験したことがないほどパイナップルを食べたはずだ。
2022.10.05
屋久島のこと

鹿児島弁の敬語には何段階かがある。

私の家族は、私が生まれる前の年に、現在の鹿児島県日置市から屋久島に移り住んだ。 なので、私の mother tongue は屋久島弁のはずである
2022.10.05
生活英語

英語能力上達のいちばんの要因

赤ちゃんのとき 「口が早い」 とか 「言葉が遅い」 という表現で、言葉を覚える時期が早いか遅いかを話題にしますね。子供の言語学習の初期の場合には、このように、言語適性が学習速度に影響することがあるようです。しかし、…。
2022.10.05
赤井田のつぶやき

英語の語源こもごも

autumn という単語ができたのはけっこう新しく、1870年代の終わり頃で、あの Boys, be ambitious. で有名なクラーク博士が札幌農学校にいた頃のことである。 クラーク博士は1876年7月に来日した。そして、授業が始まった9月に学校に行くと、農学校の生徒たちがしきりに「おぉ寒ぅ、おぉ寒ぅ」と言っているのを聞いた。
2021.12.02
屋久島のこと

 学校謹慎を食らう ― 屋久島高校時代の思い出

 私が在学していた頃の屋久島高校では、停学には「無期停学」と「有期停学」があり、その下の少し軽い指導に、「家庭謹慎」があった。家庭謹慎は言わば停学と同じなので、用語として使わない学校も多いようだが。  いちばん軽い罰則(指導)に「学校謹慎」があり、私は高校2年のとき、この「学校謹慎」を食らってしまったのである。4日間。
2022.10.05
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