高等学校が生徒に対して行う懲戒と言うか指導の中でいちばん重いのは退学で、その次が停学だろう。最も軽いのは、口頭での指導だろうが。
私が在学していた頃の屋久島高校では、停学には「無期停学」と「有期停学」があり、その下の少し軽い指導に「家庭謹慎」があった。家庭謹慎だと登校できない。言わば停学と同じなので、用語として使わない学校も多いようだが。
その次に軽い罰則(指導)に「学校謹慎」というのがあった。私は高校2年のとき、この「学校謹慎」を食らってしまった。4日間だった。
なぜそんな罰則をくらってしまったのか、また、「学校謹慎」がどんな形態だったのかは、後述する。
学校謹慎が始まる何日か前に、休み時間だったと思うが、教室にいた私のところに担任の先生が来られ、「赤井田、ちょっと校長室まで来い」と言われた。もちろん心当たりはあったので、覚悟して向かう。
そして、校長室でいろいろと話があり、「君は来週の月曜日から4日間、学校謹慎だ。明日、お父さんかお母さんに学校に来ていただきなさい」と判決が下ったのであった。そのとき、もう一人、同じクラスの男子生徒もいた。彼は、無免許で校内をバイクに乗ったという罪だった。ふつう、私有地では車やバイクに乗る際に免許は必要ないのだが、学校内は不特定多数の人が入る可能性があるので、無免許運転は違法となるのである。
さて、私がどんな大罪を犯して学校謹慎になったのかと言うと、スピード違反である。
「スピード違反」というと、高速道路かどこかをナナハンで150キロくらいでぶっ飛ばしたように聞こえるかもしれないが、私のスピード違反は、原付(今で言う原チャリ)で13キロオーバーである。原付の制限時速は30キロなので、たったの43キロで走っていて検挙されたわけである。かわいいもんだ。
ちなみに、ウサイン・ボルトが100メートルを走るスピードが平均38キロくらいだそうだ。トップスピードになると45キロくらいまで速くなるらしい。つまり、私のスピード違反は、ボルトの最高速度よりも遅いくらいだったわけだ。なのに検挙。
その日は授業のない日だったという記憶がある。たぶん日曜日だろう。高校がある集落(島でいちばん大きい集落で商店もいくつかある)にある商店に、おそらく父に頼まれた野菜を届けていたのかもしれない。その集落に向かっている検問に引っかかったのである。
検問のちょっと手前で3年生の先輩が反対車線をこちら側に走っており、私に何か合図をした。私はてっきり単なるバイク同士の挨拶だろうと思い、こちらも手を挙げて返し、そのまま、同じスピードで走って捕まってしまったという次第である。
あとで思えば、その先輩は私に「ねずみ取りがいるよ」と教えてくれていたのだった。
たったの13キロオーバーくらいの交通違反で、なんで学校謹慎(4日間)になってしまったのかと言うと、学校に警察から報告がある前に、自分から申し出なかったからだと、あとで担任の先生に言われた。申し出ておれば、「訓告」くらいで済んだのかもしれない。
わずか43キロで走っていて検挙されたため、このあとしばらく、私のあだ名が「43キロ」になってしまった。
さて、学校で宣告を受けた夜、家に帰って、このことを親に言うと、こっぴどく叱られるかと思いきや、父親は割と平然としたもので(内心は分かりませんが)、「おれは明日忙しいから、母さんに行ってもらえ(← 実際は、もちろんかごっま弁で)」と。
次の日に母親が学校にやってきた。母も授業中に来ればよかったのだが、ちょうど休み時間にやってきたため、同じ集落の同級生(母のことを知っている)に見られ、「母ちゃんは、なんで呼ばれたんだ(← これは屋久島弁で)」と聞かれた。母といっしょに校長室に再度呼ばれ、校長先生から話を聞いた。
学校謹慎とは?
学校謹慎中でも、毎朝ふつうに学校に行く。私はバイク通学だったので、バイクを駐輪場に置き、そのまま別教室に直行する。いわゆるホームルームには行かない。そして一日中、別教室で自習をするわけである。何を勉強してもよいのだが、私は一応、その時間の科目を自習した。
「トイレは授業中に行け。休み時間に行くと、人に会ったりしてげんねでね(恥ずかしいからね)」と副担任の先生には言われた。ときどき、その副担任の先生は様子を見にやってこられたのだった。
そして、毎日の授業時間の終わりが近づくと、その日の自習の模様と学校謹慎になった行為に対する反省文を書き、それを校長室に持っていく。校長先生は、その反省文をちらと見、私ともう一人の同級生は帰宅してもよいということになる。
私が教室に姿を見せないわけだから、当然、クラスメートたちは私が学校謹慎中だということを知っているわけだが、同じ学年のほかのクラス、そして上級生や下級生は知らない。なので、同じ中学を出た下級生の女子生徒に校長室に入るところを見られると恥ずかしい思いをしたものだった。
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