屋久島 縄文杉・宮之浦岳登山

 

 屋久島を有名にし、旅行客を惹き付けているとも言える「縄文杉」。最初に発見されたとされるのが1966年である。

 その5年後の1971年の夏に、私は高校の行事の一環で縄文杉を見に行った。屋久島高校には、今でも縄文杉登山は恒例行事として残っているようだ。ただ、私たちのときのように3年生のときではなく1年生の時のようだ。3年生には受験勉強があるからだろう。

 高校3年の夏休みに入ってすぐの7月に行った。その前の2週間くらい、3年生全員が毎日5キロほどのジョギングをして足腰を鍛えておく。

 1泊2日で登る。今では登山道が整備され、かなり近いところまで車やバスで行くこともできるようだ。屋久島高校の縄文杉登山も日帰りらしい。

縄文杉は、実は遠い

 ヴィトンのバッグを抱え、ハイヒールを履いた若い女性が屋久島空港に降り立つや、空港前のタクシーをつかまえて「縄文杉まで行ってください」と言ったとかいう笑い話も聞いたりする。しかし、縄文杉へはハイヒールでは行けない。ちっとやそっとの行軍では行き着けないのである。タクシーが行けるのは、ほんの入口までだ。

 私たちは、海岸線に沿った県道からずっと歩いた。世界広しと言えど、海抜ゼロメートルから2千メートル級の山まで徒歩で行けるところは、おそらく屋久島だけだろう。

1日目

 朝、屋久島の北部にある楠川集落の登山口に集合した。ただ、ここまでどうやって行ったのかの記憶がない。高校に全員が集合してからバスで行ったのか(高校からは3キロほどある)、それともめいめいがバスで近くまで行ったのか。

 いずれにしても、海抜ほぼゼロメートルの地点をスタートし、最初のうちは割となだらかで登りやすかったと記憶している。ただ、記憶からすっぽりと抜けているのが「どこで用を足したか」である。今みたいに山小屋もそんなに整備されていなかったし、先生も入れて総勢200人を超えていたから、山小屋のトイレだけでまかなえたとは思えない。おそらく歩道から外れて遠いところまで行き、用を足したのだろうと思うが、まったく記憶にない。

 泊まりは小杉谷というところだった。

 ここは林業や製炭業で栄えた集落で、最盛期(昭和35年)には540人が暮らしていたようだ。中学校も小学校もあった。中学校の野球チームがかなり強かったのを覚えている。

 私たちが登山をした前の年に小中学校が閉校になったばかりだった。なので、まだ校舎も残っており、私たちはこの校舎でキャンプしたので、テントを張るという手間が省けた。今では、屋久島の山間部ではテントを張った野営は禁止されている。夜を過ごすのは山小屋だけである。

 夕飯は、キャンプの定番のカレーである。そこそこの用具は持って行ったので、小中学校の校庭跡にかまどを作ってカレーを作った。

 夕食後はキャンプファイアーなどで夜を過ごしたが、翌日の強行軍を考え、寝させられたのは早かった。

 同級生の中には、なんとサントリーの RED というウィスキーをこっそり持ち込んだ猛者がいた。

 皆が寝たあと、確か3人が抜け出し、近くのせせらぎに下りて行き、川の水で水割りを作って飲んだらしい。私も誘われたが、さすがに断った。翌朝、そのうちの1人(小中学校で同級生だった)にこっそり聞くと、なんと、徹夜で飲んでいたとか。その足でその後、ウィルソン株、縄文杉、宮之浦岳の頂上まで登ったのだから、すごい。そして、なにがすごかったと言うと、なんとそいつはビーチサンダルで登山をしていたのだ。

 屋久島の山奥の川べりで、校則を破って飲酒をしたこの3人のうちの1人は、残念ながら、2020年夏に故人となった。

2日目

 次の日はいよいよ宮之浦岳登頂を目指す。

 朝飯のときに覚えているのが、ある先生が言った「水分は少なめにしておけよ。味噌汁は1杯だけにしておけ。でないと疲れやすいぞ」という言葉である。水筒は持って行ったと思うが、今では逆の発想だろう。

 途中、翁杉(残念ながら2009年に倒木)、ウィルソン株、大王杉、夫婦杉などを見、縄文杉に立ち寄る。

 ウィルソン株は、ネットなどで検索されたし。切り株が空洞になっており、中に入ることができる。木の株の空洞の中に、私たちの同行者全員(生徒200人弱+先生10人ほど)が入れたのである。このあとこれほどの人数が空洞に入ったことがなく、今では「伝説」になっているそうだ。

 屋久島高校では今でも縄文杉登山を学校行事として行っているようだが、残念ながら、1学年の生徒数が100人程度までに減少してしまったので、200人が一度にウィルソン株に入ることはできない。

 宮之浦岳登頂前に最後に立ち寄ったのが、縄文杉。私たちが行ったのは縄文杉が発見されてまだ5年後だったので、当然、今のようなデッキもない。木肌に直接触ることもできた。クラスメートたちで手をつなぎ、縄文杉のまわりを囲むこともできた。確か10人で囲めたと記憶している。

 今でも、同級生が集まって飲むと、高校時代のいちばんの思い出として、このことが話題になる。

 残念ながら、女子生徒の中には宮之浦岳の頂上までは、力不足で登り切れなかった者もいた。

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