9月になると、私が小学5年生だったときの台風を思い出す。1964年(昭和39年)9月24日に屋久島を襲った。
1964年は、アジアで初めて東京オリンピックが開催された年である。10月10日が開会式だったから、あと2週間ちょっとというときである。もっとも、屋久島の者には、東京オリンピックは遠い存在だったと思う。
この年、長兄は中学を卒業し、鹿児島にできたばかりの国立工業専門学校の入試に失敗したため、7月頃まで家にいたが、屋久島高校に通っている中学の同級生たちと会うのが恥ずかしいと、東京に出たいと言い始めた。それで、東京に住む叔母(父の妹)を頼って、7月の半ば頃、父が長兄を連れて上京した。
父は、昭和8年から赤紙(召集令状)が来るまでの10年あまりを東京で過ごした経験があったため、20年ぶりの東京生活が懐かしかったのだろう、なんと2か月以上も東京に居続けた。そして、この20号台風が屋久島を襲ったときには、まだ帰っていなかった。
台風が襲った前日の9月23日は、我が家があった、屋久島の東北東に位置する長峰集落にある長峰神社の大祭だった。公民館で催し物があったため、家族で見に行ったが、台風が近づいているというので、早めに終わった記憶がある。いつもは屋外に出店が出たり相撲大会などがあったりしてけっこう賑わうのだったが、それらは中止だった。
台風の当日9月24日は、当然ながら休校になった。
我が家はブロック造りだったので、家屋全体が飛ばされるという心配はあまりなかったが、中学2年の次兄と私、そして母とで、ガラス戸に戸板を打ち付けたりして台風に備えた。
その日は朝から暴風雨だった。それまでに私が経験した台風は大した被害をもたらさなかったので、台風が通り過ぎるのを家の中でじっと待つだけだった。当然停電になるので、ろうそくの灯りを頼りに、食事をしたり、または兄弟でトランプをして遊んだり。
しかし、このときの台風は様子が違った。昼近くになって、東南向きの玄関の硝子戸の外に打ち付けてあった戸板が飛ばされたのだ。
次にガラス戸が飛ばされてしまうと、風が家の中に入り、屋根がそのまま飛ばされる恐れがあった。強い風のなか、飛ばされた戸板を探しに行くのも危ないし、硝子戸を兄と二人して手で支えていたほうがいいだろうということで、次兄と私は、玄関のガラス戸を、内側からずっと持ち続けた。
昼飯も祖母が握り飯を作って、両手が離せない次兄や私の口に入れてくれた。ときどきやかんの口からお茶を注ぎ込んでくれたり、飴を口に入れてくれたりもした。
屋久島のすぐ西を通過したのが午後2時~4時ごろで、午後5時に枕崎に上陸して、あたりが薄暗くなるまで、ずっと玄関のガラス戸を持ち続けた。8時間くらいだったろう。
玄関のガラス戸は東南向きなので、ときどき強風で家の向こうの木々が押し倒されるような感じでしなるのを見続けるのは、さすがに恐怖だった。
私の記憶の中では、この台風20号が人生で最も強いものだった。
記録を見てもそんなに強風ではなかったようになっているが、後日、瞬間最大風速は80メートルだったと聞いた記憶がある。
我が家があった屋久島の東北東にある長峰集落では、7軒が全壊だった。多くの家が半壊だったり傾いたりだったりした。幸い我が家では、瓦が数枚飛んだだけで、豚小屋などにも大きな被害はなかった。
次の日に、全壊した家を見に行ったが、ほんとうに何も残っていなかった。家があった北側の畑に、家具や柱、瓦などがころがっていただけだった。
1964年の台風20号については、下のサイトをご覧あれ。
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