祖母は1893年(明治26年)生まれ。私が1953年生まれなので、ちょうど60違う。つまり、干支が同じである。
祖母が還暦のときに生まれた孫だったからか、私には兄が2人いるが、殊の外、私をかわいがってくれた。私は「ばぁちゃん子」だった。
お寺に行くときも温泉に行くときも、私を連れていってくれた。兄たちを連れていかなくても、私を連れていってくれた。
私の生家(私は病院ではなく、実際にこの家で生まれた)は、下の写真にあるように、今の飛行場のエプロンの東側にある吹き流しがあるあたりにあった。エプロンや飛行場の建物があるあたりが我が家の畑だった。
屋久島空港が拡張するので生家を立ち退かなくてはならなくなり、1キロほど離れたところに家と田畑を買ったのが、私が高校3年になるちょっと前のこと。人が住まないと家が傷むというので、祖母と私が住むことになった。私は10キロほど離れた高校にはバイクで通っていた。朝、祖母の作った朝食を食べ、両親の家に立ち寄って弁当をもらってから高校に行く。帰りは空の弁当箱を母に届け、祖母と住む家に帰るという生活だった。
北九州大学を受験するとき、私は祖母といっしょに行った。今流行りの親が受験場までついてくるというのではない。祖母の従妹が小倉に住んでいたので、そこに泊めてもらうために祖母もついてきたという次第。また、北九州市若松区に祖母の姉が住んでいた。私の大伯母に当たる人である。
私の受験が終わった後、その大伯母のとこにも行った。
祖母は享年100(満98歳)で亡くなった。私や兄弟たちは臨終には間に合わなかったが、両親の話では、祖母の最期の言葉は「拓弥、道に出ると馬に蹴られるよ(もちろん鹿児島弁で)」だったそうだ。兄たちは「オレの名前は出なかったのか?」と悔しがった。
写真は、伝説の長寿男性、泉重千代さんと祖母。何かの祝いの席だろう。
今ではあり得ない話
上で書いた祖母の姉、大伯母とのこと。北九州市若松区に大伯母が住んでいた。
大学に入って2年ほど経ったころ、若松区役所から電話があった。もちろん私自身は電話など持っていないから、勤めていた新聞店に電話が来た。その大伯母の年金を区役所まで取りに来て届けてくれないかという依頼だった。私はそのころ中古の車を買って持っており、それが可能だった。
その後、年金が出る時期になると、区役所から電話があり、私は印鑑を持って若松区役所に行って年金を現金で受け取り、それを大伯母に届けるということをやっていた。
区役所の人は「この大甥は年金を着服するかもしれない」と思ったりしなかったのだろうか。届けたかどうかの確認もしなかったから、信用していたのだろう。
今ではおそらくほとんどが振り込みだろうし、家族であっても受取人にはしないだろうから、ほぼあり得ない話である。
この「年金運び屋」は、私が育英奨学生を終え、小倉を離れるまで続いた。
ちなみに、大伯母から何かしらの駄賃をもらった記憶は、ない。
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