これまで、南カリフォルニアの砂漠の町 Palm Desert にある College of the Desert というコミュニティ・カレッジに語学留学したことを書いてきた。
日本の大学時代には、新聞配達と付随する業務に忙殺され思うような勉強ができなかった。朝夕刊の配達、営業(いわゆる拡張業務と購読を止める人の引き留め)、集金などの業務が、夕刊配達後にほぼ毎日あった。
言い訳になってしまうが、こうしたことから、私の英語力はとても就職活動で通用するとは思えないレベルだったのである。それで、「人生のモラトリアム」という口実も兼ねて、アメリカに行き、英語力をつけようと思ったのである。
中学3年のとき、「プラハの春」があった。東西冷戦の最中にチェコスロバキアの民主化を目指した変革運動である。
そして、NHKの番組に「海外特派員報告」というのがあり、現地から特派員が報告する姿にあこがれた。私は新聞記者になるのが夢だった。それも海外特派員に。
大学に入った頃から憧れていた南カリフォルニアで、しかも、日本人が多いだろうと思われるロサンゼルスやサンフランシスコなどの大都市ではなく、田舎の大学に、運よく授業料が無料だというところが見つかった。そこが College of the Desert だったのである。
1976年8月に行き、ESL(English as a Second Language)のプログラムは、着いた翌日から受講できた。
始めてから2か月ほど経った頃、one semester のうちに6ユニット(単位)までであれば、大学のコースも無料で受けられるということを知った。
カレッジ・コースにジャーナリズムの授業があり、受けたいと思った。それで、大学の学生課だったか教務課だったかに申し出たところ、ジャーナリズムの先生と話ができ、英語能力のテストを受けなさいという指示が出た。
そして、係の先生のところに行くようにということで、その先生を訪ね、試験を受けた。
結果は、受講可能な英語力は備わっているだろうということだった。
それで、1977の1月から始まるセミスターで Introduction to Journalismという授業を受け始めた。それまでには、ふつうの会話でのリスニング力やスピーキング力はけっこう自信をつけ始めていたので、じゅうぶん授業にもついて行けると思っていた。
しかし、やっぱり大学の正規の授業の内容と語彙、内容は、ESL(English as a Second Language)プログラムとはまったく違っていたのである。
初めのうちは、assignment(宿題)が出ていることにすら気づかなかったりもした。それで、次の授業からは、終わったあと、クラスメートに assignmentがあったのか、あったらどんなことか、などを訊くようにした。
コメント