ディズニー映画社の極東総支配人だった人(キャプランさんといった)には、よくロサンゼルスにも連れて行ってもらった。と言うよりも、氏はすでに70歳を超えていたので、彼がロサンゼルスに用事があって行くとき、私が運転手として駆り出されたのだった。アルバイトではなかった。つまり、タダ働き。と言っても、イヤに思ったことはない。
砂漠の町からロサンゼルス(ハリウッドやビバリーヒルズ)まで、120マイル、つまり、ほぼ200キロ。彼のキャデラックのオープンカーを、私が運転して行く。彼の家を出てから、ロサンゼルスまで、ほぼノンストップ。
すでに当時、彼のキャデラックにはクルージング・システムが付いていた。例えば、時速55マイルで走っていてボタンを押すと、アクセルから足を離しても、スピードをキープしておける。当時は、フリーウェイはスカスカ状態だったから、ブレーキをかけるようなことがない。なので、シートにあぐらをかいたまま何マイルも走ることができた。
彼はロサンゼルスに行ったあとは、数日ロサンゼルスに滞在することが多かったので、帰りは私が一人で運転して砂漠の町に帰ることになる。
彼が乗っているときには車の幌を開けてオープンカーにしてしまうことはなかったが(クーラーを入れるため)、私が一人で砂漠の町に帰るときは、幌を開けてオープンカーにして運転したものだった。
日本人(オリエンタル)の若造が、キャデラックのオープンカーでビバリーヒルズの街中を走っているのを、ほかの人たちはどのような目で見ていただろうと、今にして思う。
ディズニー映画の社長にも会えた。
ディズニー映画社の元極東総支配人は引退した身だったが、ディズニー映画社やほかの映画社のトップの人たちと頻繁に会っていた。
不思議なことに、そうした重鎮たちと会食する際にも、私を同伴させてくれたのだった。例えば、中華料理店の丸いテーブルであっても、私を同席させてくれた。
会議のときなどは、私は社長室までは同行したが、私がヒマだろうからと、ディズニー映画社の社長があるところに電話をかけ、ある女性を呼んだ。
すると、彼女は私一人だけを車に乗せて、ディズニースタジオ(ディズニーランドではなく、映画の撮影スタジオ)のツアーをやってくれたのだった。「あの映画のあのシーンはここで撮りました」のように、ずっとガイドをしてくれた。
広い撮影スタジオだった。それなりに時間もかかり、感激もののツアーだった。
また、こんなこともあった。会食のときのディズニー映画社の社長の話。
社長がある金曜日、午後から別荘に行くためにネクタイをしないで出社した。すると、オフィスで顔を合わせる人に、いちいち「今日はなぜネクタイをしていないのですか」訊かれ、それに答えるのに午前中を使ってしまった。
それがあって以来、彼はノーネクタイで出社することを止めたのだそうだ。
1970年代は、アメリカでさえ、オフィスではネクタイをするのがふつうだったことが、これから判断できるのである。
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