あるシンポジウムがありました。
その中で、一人の登壇者の先生(東大教授)が、次のような話をされました。
「7,8人の日本人だけしか参加していない会議で、みんなが英語で話すことがあります。すると途端に知能指数が半分くらいになったような内容しか出てきません。」
これを聞いて思い出すのが、いくつかの大学で行われている英語弁論大会です。
ある女子大学で行われる弁論大会には、私のオフィスでは、毎回(過去10年くらい)賞品を提供しています。一度も「見に来てください」という誘いもなかったので、何年か前に、こちらから「見せてほしい」という要望を出して見に行きました。
そこで思ったのは、弁論の内容が大学生にしては幼稚だなと感じたことです。参加者たちは全国の地方大会を勝ち抜いてきた精鋭ばかりです。
すばらしい英語の発音とパフォーマンスで、一見(聴いてすぐは)すごいなぁという印象なのですが、聴いていくうちにだんだんと「あれ、この内容だと、日本語にすれば中学生の弁論大会のレベルでは?」と思えてしまいました。
「何をしたか」という事実を述べるだけの話が多く、大学生の主張であれば、もう少し踏み込んだ考察がほしいものだと思ったのでした。
思うに、これは弁論の原稿を書くときに、おそらく初めから英語で考えているからではないでしょうか。昔から Think in English と言われていましたし。
たぶん日本語で書き始めてはいけないと思う学生も多いのでしょう。
しかし、哲学者・思想家の内田樹氏は次のように言っています。
「母語はあらゆる知性的・情緒的なイノベーションの培養基である。私は母語によってしか『喉元まで出かかったアイディア』を言葉にすることができない。後天的な努力によって英語で読んだり、書いたり、話したり、場合によっては考えたりすることも可能だが、英語で“創造する”ことはできない。」
つまり、弁論の原稿を書く際も、やはり日本語で書き始めたほうがよいように思います。それを英訳し、ネイティブの先生あるいは友人にチェックしてもらいながら推敲を重ねていけば、もっと掘り下げた深い内容の主張になるのではないでしょうか。
この大学での弁論大会のあと、東京大学で行われた弁論大会も聞きましたが、同じようなことを感じました。
中学校や高校の教科書を見ても、英語で書かれているために立派な内容に思えてしまいますが、日本語に訳してみると、まるっきり幼稚です。
例えば、次のような内容です。中学2年の教科書ですが。
I’m a junior high school student. Today, I went to the park with my friend Taro. I played soccer with him in the park. It was fun.
これを日本語にすると、「きょう友だちと公園に行きました。サッカーをしました。楽しかったです」となり、まるで小学2年生の作文ですね。
語彙力が足りないのだから仕方がないとも言えますが、やさしいレベルの単語を使っても、内容の高い文は作れるはずです。アメリカの大統領の演説などは、やさしい単語ばかりです。
アメリカの国民は、英語の母語話者ばかりではないからです。
「英語で考える」という発想を、今一度考え直すことが必要かもしれません。
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