赤井田拓弥がカリフォルニア州 Palm Desert にある College of the Desert に留学していたときに起きた、さまざまな出来事をエッセイ風に書いています。
大学コースでのジャーナリズムの授業や、学内新聞の発行に参加したことなどは、後日、書いていこうと思う。
「日本人留学生」の記事のところでも書いたが、1976年8月から10月に College of the Desert の ESL(English as a Second Language)プログラムを受講するためにアメリカにやって来た日本人留学生のほとんどは、2年後の1978年6月~8月に帰国していった。
まず、1976年に日本人留学生がどっとやってきた理由の1つは、授業料が無料だったことがいちばん大きいと思う。そして、78年の5月から8月にかけて帰国していった大きな理由は、この時期に、ESLの授業も大学の授業も有料になることが、州の法律で決定したからでもあった。
1978年6月初め、カリフォルニア州で Proposition 13 という固定資産税に関する法律が可決された。この法律によって、固定資産税の税率が下がったのである。
つまり、州の税収がその分減ることになった。それまで高かった固定資産税に対して、土地や家屋の所有者たちが反対運動を起こしたのである。
カリフォルニア州では、固定資産税の多くが公立学校の費用に使われており、税収の低下によって、無料の授業を続けていくことができなくなった。大学の正規の授業だけでなく、ESL の授業も有料になることに決定した。
記憶では、確か1ユニット(単位)あたり40ドル(当時で1万2千円)の授業料になるということだった。だいたい1学期で12単位ほど履修するので、15万円ほどになる。そうすると、通年で30万円の授業料を払わなければならない。
私は当時、1か月の生活費(アパート代、食費などすべて)が200ドル(6万円)くらいだったので、年間30万円の授業料はきつかった。
ベトナム戦争の終結から3年、贖罪の意味もあったのかどうか分からないが、移民の人たちに対する厚遇を続けてきたのだが、そろそろもういいだろうということになったのかも知れない。
こういうわけで、私は非常にラッキーな時期に2年間留学させてもらったことになる。