カリフォルニアの青い空 ― 5.アメリカの大学探しと新聞配達終了

大学を4年で休学し、その後アメリカのカリフォルニア州にある大学に留学した。そのいきさつや出来事を書いていく。 

大学の留年が決まった1976年1月16日の時点では、まだ行ける語学学校や大学は決まっていなかった。
留年は決まってしまったからには、アメリカに行かなければならないことは確定したのであった。

すると、前に述べたカリフォルニア州 Palm Desert というところにある College of the Desert という大学の ESL (English as a Second Language) プログラムの責任者から手紙が来た。「いつ来る予定か、今はどういう状況にあるのか」などなど、いろいろな質問が書いてあった。それで、すぐに返事を書き、その後、その責任者の人とは数度の手紙のやりとりが続く。
律儀な先生で、私が手紙を書くと、すぐに返事が来た。

こうして1月、2月が過ぎ、3月になった。あと1か月で読売育英奨学生の立場も終わる。いろいろな手続きで、新聞社に行くことも増えた。『読売ジュニア』という奨学生向けの月刊新聞の後輩への引き継ぎ、新入生の研修の打ち合わせなどなど。

3月20日過ぎには、私の区域の後任の新入生が決まり、その後輩に配達手順やいろいろな業務(順路帳や顧客名簿の書き方など)の引き継ぎをした。

私は留年するので、当然、卒業式には出られない。卒業式の日は、新聞配達用の作業着を着て大学に行き、級友たちに会って別れを言った。

アメリカの大学からの手紙には、なんと「授業料は無料である」と書いてあった。とても信じられないので、再度手紙で問い合わせたが、「心配ご無用。授業料は要りません。教科書も無料だ」とあった。そして、学生ビザのためI-20を発行するので、いろいろと情報を送れとあった。

こうしてアメリカへの留学が具現化が進んでいた1976年3月であった。

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