大学を4年で休学し、その後アメリカのカリフォルニア州にある大学に留学した。そのいきさつや出来事を書いていく。
今から40数年前、青春の一時期を南カリフォルニアの砂漠の町で過ごしたことがある。そこで経験したこと、感じたことなどを綴ってみようと思う。
毎週月曜日に掲載する予定。
まず、カリフォルニアにあこがれたいきさつなど。
『カリフォルニアの青い空』という歌がある。アルバート・ハモンドという歌手が歌った。原題は It Never Rains in Southern California(南カリフォルニアでは雨が降らない)である。
その南カリフォルニアに、私は2年近く(22か月)住んで大学に通った。事実、私が住んだ22か月のあいだに雨が降ったのは2日だけだった。
遠い昔に住んだ南カリフォルニアの小さな町で私が体験した小さなことを書いていこうと思う。
『カリフォルニアの青い空』がヒットしたのは1972年。私が生まれ育った屋久島の1つだけの高校(屋久島高校)を卒業し、北九州市小倉南区(当時は小倉区)の大学に入った年である。
屋久島のしがない農家である親に学費を出させるわけにはいかないと、大学受験前に読売新聞育英奨学生に登録を申し込んでおいた。育英奨学生というのは、新聞配達などの業務をしながら大学や専門学校に通う制度で、入学金や授業料を新聞社が出してくれる。一応、こうした資金は「貸与」という形だ。規定の期間を全うすると、貸与された学費などは返済不要となるが、途中で辞めると、1か月以内くらいに返済を迫られる。
私が育英奨学生だった頃の1970年代前半は、業務として、朝夕刊の配達(200部くらい)、毎月の集金、拡張員が来たときの案内業務、販売店をまたいで奨学生同士での拡張業務などがあった。
朝食と夕食は付いており、これは給料から天引きされた。昼食は自前。住むところは販売店の近くに四畳半の部屋が提供された。部屋代は天引きされなかった。3年生になると、やや広い部屋に格上げされた。
大学1~2年は取らなければならない単位も多いため、授業数も多い。
朝4時に起きて配達し、6時半頃に店に戻り、朝食を食べて自分の部屋に帰るのが8時頃。準備して大学に行くのだが、寝不足から授業中はやっぱり眠たい。寝不足を少しでも解消しようと仮眠をすれば、そのまま寝入っていまい、大学には遅刻したり欠席したり。
夕刊があるため、午後4時までには販売店にいなければならない。そのため、サークルに入ることもできない。また、午後4時以降に始まる授業を受けることもできない。級友たちと授業のあとに歓談する機会もほとんど持てなかった。
「これでは大学生とは言えないじゃないか」と思ったものだった。
このような、ぼんやりとした不安を抱えながら大学生活を続けているなか、ラジオからは『カリフォルニアの青い空』が流れていた。英語の歌の歌詞などほとんど聞き取れる状態ではなかったが、アメリカのカリフォルニア州というまだ見ぬ世界に思いを馳せながら、いつかは行ってみたいという気持ちを膨らませていったのだった。